龍神の花嫁
古の約束

禊と称しごく身近の者以外、あらゆる俗世から切り離されて1ヶ月。
1日の殆どを閉ざされた森の神殿で過ごすことが日常となった彼女の五感は日に日に研ぎ澄まされていく。故に拾うことのできただろう葉擦れ紛れるごく小さな音。焦燥を色濃く滲ませる切羽詰った音に気付くと同時、少女は大きな瞳を見開き、直ぐ様発信源を振り返る。呼応したようそこにひょこりと覗いたように見えたのは、彼女が良く知る深い闇色。
「…っ」
存在を認めた徒端、少女は素早く周囲に目をやり慌てて彼の場所まで駆け寄った。
棘のある垣根に迷わず腕を差し入れ鬱蒼と茂る先に目を凝らす。視界を掠めただけだった色が大きくなるにつれ、見えてくる人の影。
少女の遠慮ない所作に大きく音をたてる緑花の間から、びくりと振るわせるまだ細い肩が覗く。
声と言うには申し訳ない程の音から咄嗟に思い描いたと同じ人物が、そこにはいた。
「…シンッ」
色を変えた声が落ちきるより早く振り仰ぐ。幼さ残す顔だちに縋りつくような色を帯びて、真紅の眼差しが少女を捉えた。
「何でこんなところにいるんだよ…っ正当な手続きを経ないとここには来たらいけないって言われただろ?!男性には特に厳しいって知らないはずないのに…っいくら弟だからってシンも例外じゃないんだ、早く…」
「キラ…っ」
極力感情を抑えようとするを失敗して焦った調子で言い聞かせるを切羽詰った声音に遮られ、キラは泣き出しそうな顔で振り返った。ついと視線を落とすと、まだまだ細い少年の手足に細かな傷、足首には金属製の鋭い棘が刺さった様子が見て取れる。
「…怪我してるじゃないかっ」
嗚呼もう、と言いながらキラは自らの真白い衣の裾を躊躇なく切り裂いた。
「キラ!そんなのいいから、だから…っ」
「良くないよっ化膿したらどうするんだっ!」
遮ろうとする手を振り払い、キラはもはや半泣きの体でシンの手当てをする。逸る気持ちばかりが先走るから、何度やっても手が滑る。白い布に沁みこんだ血の色はまるで彼の瞳と同じ色。滲む血液が彼の生命を脅かしているのだと思うと、キラの手は益々震えを増していく。
昔から元気が良すぎて悪戯放題だったシンはキラのたった一人の弟だ。その更に下にもう1人妹ができるまでは、本当に我儘ばかりでいつも周囲を困らせていた。けれど姉であるキラを子犬のように慕ってくれた彼は、キラにとって手はかかっても誰より可愛い弟。今もまだ、言葉だけは一端の幼い弟が、実はまだ臆病なところもあると知っている。隠し切れない程に幼いことを、知っている。そんな彼が怪我を押してでもここまできたのが、自分を心配してのことであるとは容易に知れることだった。数々の罠を潜り抜け、禁じられた森に飛び込んで。処罰を受けることさえきっと覚悟の上だったろうと思うと、キラは呼吸さえも苦しくなった。
「なんで…っ」
「…キラ、逃げよう」
滲みそうになる涙を歯を食いしばって堪える最中、思いがけない言葉にキラは自分の耳を疑った。がしりと肩を掴まれて、手当てに伸ばした手が中途に止まる。
「何、言って…」
思わず顔を上げれば、初めて見る大人の真剣さでシンが自分を見つめている。
焦りを滲ませた表情にひたと強くキラを見据える危うい眼差し。
一時たりとも逸らそうとしないシンの瞳がこれ以上ない本気を伝え、キラは戦慄した。
「シン…何言ってるかわかってる…?」
「…わかってるよ、でも俺は間違ってるとは思わない」
「…何を捨てることになるかわかってて、」
「………っじゃあキラならいいっていうのか?!」
唐突にいきりたつシンの手に力が籠る。
「伝説なんて所詮ただの御伽噺じゃないか!キラが行って嵐が収まる保証なんてないっなのに、なんで第一皇女のキラが―――…」
「…僕は第一皇女であると同時にこの国の巫女だから」
シンの憤りにを切って捨てる勢いで告げる、キラの冷静なる声音にシンは思い切り顔を歪めた。
「―――なんなんだよ…キラを犠牲にしてじゃなきゃなりたたない国ってなんなんだよっ!ラクスさんだって、ルナだってメイリンだって、カガリだって駄目だったのにっ?!俺はっ!…俺はっそんなの嫌だっ!これ以上誰かを失うのは嫌だよ…っ!!」
まるで駄々捏ねる子供の叫びにキラははっとして息を止めた。
彼のそれは誰の声。誰の言葉。誰の本音か。
民を守るべき身でありながら、未だ否と叫ぶ本当の自分。
込上げる衝動を咄嗟に飲み込み、キラは努めて低い声を出す。
痛みを背負っているのは自分だけではないことを改めて胸へと刻む。
自分の代わりに、これまで一体幾つの命を犠牲にしたのか、知らないでいられるキラではない。
震えてしまわないよう細心の注意を払いながら、キラは肩を震わせる弟の名を呼んだ。
「…国を統治する者として真っ先に考えなければならないのは、民の幸せだよ、シン。例え確証がなかったとしても、叶う可能性があるのなら何でもやってみることだって必要だ。どんなに非情に思えることだって、試すべき余地があるなら、挑戦することは統べる者の勤めだ。―――…シンは、時期国主じゃないか」
強くならなきゃ、と微笑みかけるキラに、シンは声にならない嗚咽を発してキラを抱きしめる。
「…大丈夫。伝説の通りなら、僕がいけば彼は怒りを静めてくれるんだ。僕がちゃんと止めてくるから、安心して」
近年まれに見る自然に恵まれた豊穣の王国。
国記には、かつて神の領域とされていたこの場所で、龍神と王家の間にひとつの約束が交わされたと記される。周囲の多くの国が倒れ、生まれる中、ただひとつ長年生きながらえてきた国は、それ自体が最早伝説だった。
だが、伝説にもやがて終りが来る。
今まさに沈みかけているこの国は神から見放された土地と成り果てようとしていた。
それも、他国の侵略でも、王家の没落でもなく、自然の猛威―――時折狂ったように注がれる嵐のせいで。
言い伝えにある龍神によって約された平和が途切れる時、王国は龍神に王国で最も尊い宝を差出し、再び加護を願うしか術はない。
王家の血を継ぐと同時に、巫女でもある娘の名は、キラ。
古よりの約束を受けて、龍神の最初の巫女であったとされる王家の娘の名を受け継いだ、唯1人の第一皇女。
「嫌だ…嫌だよキラ…っ」
すすり泣く少年の背中に手を回し、キラはあやすように背をたたく。
「…ラクスもカガリも、僕のかわりに行ってくれたんだ。…僕は、これ以上逃げたくない」
彼女達の前で、逃げ出すような恥かしい真似はしたくない。
静かな声でそういい切るキラにシンがより一層大きくしゃくりあげる。
いつか豊かな自然が王国に仇為す時。
それは龍神の加護が消えた時。王国を襲うのはかつてない程の地獄になるだろう、と。
長く身近になかった予言が再び光を浴びた時、龍神の花嫁となるべくキラの他に王家の跡取りはいなかった。
シンという、キラの弟が出来るまで、彼が生まれて後も加えて、キラの代わりに龍神の湖に身を投げたのは既に4人に上る。
その中の誰1人として、いるかいないかわからない、龍神の心を慰められたものはいなかった。
「あいつだって、絶対そう思ってるに決まってるのに…っ」
苦しげに吐き出されたシンの言葉に思い当たり、キラはそっと目を眇める。
思い描いた太陽よりも美しい月の光は、先を決めたキラの唯一つ信じる希望だ。
かつてこの婚約者であり、従兄弟でもある彼は、キラが覚悟を告げた日からキラに一切触れなくなった。寂しさも、苦しさも、痛みも、罪悪感も、怒りもきっと何もかも。キラのすべてを飲み込んで、包んでくれたのは彼だった。
彼がいる世界だからこそ、キラは決めることができたのだ。
龍神の元に、嫁ぐことを。
禁断の森最奥にある崖に身を躍らせ、龍神に嫁いでいく瞬間も、きっと自分はあの光の中に溶けていく。そう信じることは、今のキラに残された唯ひとつの誇りと言っていい。
「…ほら、いつまでも泣いてないで、シン。僕達は姉兄なんだから。…マユは、僕達が守らなきゃ」
だから自分は誰にも微笑む。
「キラ…ッ」
「…シンのせいじゃない。だからもう自分を責めないで?」
だから、3日後の月夜の晩にも、微笑んだまま逝けるだろう。
「―――だからお願い、シン」

どうか伝えて。

愛していたことを。
ずっとずっとこの先も、愛し続けていくことを。

例え世界が終わってしまっても。
他の誰かに嫁いでも。

―――永遠に、彼のことだけを。

言えない言葉

「―――キラ姫が?」
「ええ…庭で転んだのだと申しておりましたが…」
「…怪我は?」
「それはありませんでした。けれど、」
ちらりと物問いたげな視線を投げかけられ、イザークは押し黙った。優秀な下女である彼女は、第一皇女にとっても、自分にとっても、立場を超えた友人と言える数少ない相手だ。一度目を伏せ、暫くしてから顔を上げる、目配せする小さな合図を心得て、彼女は扉の鍵を確認する。確かに掛けられていることを確認し、振り返った彼女の瞳には心配が色濃く宿っていた。
「…たぶん、森の中で誰かに会ったんだと思うの」
がらりと口調を変えた彼女の視線を受け、イザークは軽く腕を組む。
「宮の警備は半端では敗れないし報告も受けてない。となると、禁断の森まで足を運んだということになる。奥深い森に一歩入っただけであそこは天然の迷宮だ、宮に外から近づくなど不可能だぞ。第一、相手は婚礼を控えた最高位の姫巫女だ。その身を汚すことの非礼をしらぬ者などいない筈だろう」
それでなくても今はそんな時ではない。
3日後に婚礼を控えた彼女に対する期待は日増しに増す一方なのだ。
冷淡に言葉を尽くす端から湧き上がる衝動を必死の思いで飲み下し、努めて単調な口調を崩さないイザークを抜け目なく観察しながら、ミリアリアは軽く嘆息した。
「王庭を知り尽くした子供は、禁断の森についても詳しいかもしれないと思わない?」
「…まさか」
「…いくら第一王子だって言っても、シンはまだ子供なのよ。それも、」
キラのことが、心の底から大好きな。
苦い口調で付け加え、額に手を当てるミリアリアの姿にイザークは返す言葉を失った。
その可能性について考えなかったとは言わない。彼の気持ちを思えば、一笑に付すことなんてとてもでないができやしなかった。
シンは国中の誰もが望んだ正当なる血統の王子である。まだ赤子であるマユが生まれるまで、いや生まれてからでさえ、彼は王国中の愛情を一身に浴びて育った。
イザークらが年頃になる頃には、かつて神に愛された土地とまで言われた王国の空は暗雲に塞がれる率の方が増え、封印された伝説が水面下で噂され始めていた時期だっただけに、彼の誕生は国民に一条の光を注いだのだ。
そしてそれは皮肉にも、第一継承券を持っていた皇女の哀しい道行を決定させるも同義の出来事だった。
キラが王家に生まれたこと、シンが生まれたこと、誰が悪いのではきっとない。
それでもシンが生まれたことで、キラの命運がはっきりと決定付けられたことは確かだった。
キラとて、過去類を見ない程国民から愛された娘だった。
それでも人は思うのだ。自分の幸せを、家族の幸せを、国の幸せを、そして、花嫁という尊い犠牲を払うことは致し方ないことなのだと己が良心を納得させる。
例え、それが何を意味することか、シンが生まれるまで3度繰り返したことを、彼らが知らないはずがなかったとしても。願いが叶えられない可能性の方がどれだけ高くとも諦めきれないのが人だという。
そして結局予想通りの結果が導き出された時、国は最後の手段を覚悟する。
贄にされた彼女らが戻ることは当然の如くなく、天候に回復の兆しは見られなかった。むしろ偽りの花嫁を送り出したことに激怒したかのよう悪化する一方で、4度目、王家の血に連なる少女を贈り出しても尚収まらぬ嵐に、国王は遂に苦渋の決断をした。

最終的には皇女自らの言をもって下された決断だった。

そして、イザークは唯一王が発表する前にそれを知っていた。
イザークはたった一人、彼女自身の口から並々ならぬ覚悟を打ち明けられた人物だったから。

これ以上逃げ続けることはできないと言った、誰よりも彼の誕生を喜んだ3つ年下の従姉妹を思うと、イザークは胸が苦しくて呼吸さえ難しくなる。
幾つも重ねきた年月、彼女の婚約者として育った自分だ。
もしも彼女に弟が生まれなければ、いつか彼女の夫として自分がこの国の頂点に立ったこともあったかもしれない。そんな野心がまったくなかったとは言えない。けれど、彼女が第一継承権を失った頃にはもう、彼女の傍を離れることこそないことだと、信じていたイザークだったから。

―――誰よりも大切に慈しんできた至宝の花を、名も顔も知らぬ龍神に摘み取られる。

その事実を考えるといっそ今確かに脈打つ心臓すら凍りつくかと思う嵐に襲われる。

年々悪化していく情勢に、だからイザークはシンを好きにはなれなくて。
正確には嫌いになりたい気持ちが根底に渦巻いていて、真正面から接することができなかった。表面上優秀な部下であり、頼れる従兄弟の仮面をつけてはいても、実のところ目を逸らし続けてきた彼なのだ。

思えば、他の巫女を犠牲にしてでもキラを手放すを渋っていた国王が、遂に伝説に従うことを決めたのだ。娘を深く愛する王の決断が自分の存在があったからこそのことだと、聡い彼が気付かないはずがない。思い込みだと言い聞かせてもわからないはずがない。それほど国は追い詰められている。
それでも心からの愛情を注いでくれた優しい姉を、国の決定に抗ってでも助けたいと思ってどこがおかしいことがあるのか。
イザークは、シンがキラを心から愛してたことを知っている。
マユを産んで暫くしてから世を儚んだ母の代わりをも務めたキラに、恋情にも似た憧れを抱いていたことも。だからこそ、何かと理由をつけてはシンは自分にぶつかってきたのだと、知っていたのだ、イザークは。

不可能と呼ばれた手段を用いたとしても、神の意志に背き自ら撃たれようとも、シンがキラに逢いにいくを躊躇することはなかったろう。例え非国民の後ろ指を差されようとも、愛する姉を逃がそうとする気持ちに嘘偽りがあるはずがない。例えそれが国に立つ者として正しいとは言えない行為だとしても。

それはきっと、彼が持つ優しさと幼さ故に。

そこまで考えの及ばなかった自分を責め、イザークは小さく舌打った。
今のキラはシンの姉である前に婚礼を控えた巫女なのだ。俗世を切り捨て身を清めなければならない大切な期間に、例え実の弟とはいえ、不用意に身を触られたりすれば穢れにも繋がりかねない。
「―――キラに直接話を聞く」
「…でも、聞いてどうするの?」
断したイザークの傍らから、酷く真剣な声音が寄越される。
「聞いて、真実だと知って、それから?穢れ払いにまた1ヶ月先へと延ばす?―――イザーク、」
「―――わかっている」
たぶん、それまで民衆は持たない。
ミリアリアが暗に諭すを遮りイザークは唇を噛んだ。
既に4度経験している彼らは、花嫁と称して贄を捧げるのはキラで5度目なのだ。
今度こそ伝承通りキラを捧げたとて確実に嵐がおさまる保障などどこにもない。
人々の胸の中に蟠る罪の意識とて、この不作に煽られた不安に負けない重圧だ。
「…わかっている、だから、訊くだけだ」
怪我はないか。
そして、…想いに、揺らぎはないか。
「イザーク…」
彼女がまだここにいるということが何よりの証だと知りながら、イザークは言葉を繰り返す。
―――もしも揺らいでいるとの答を聞いたら、自分は何と答えるだろう…
一瞬浮かんだ想像を打ち捨てるようイザークは小さく頭を振った。
そういえば、と懸命に考えを脇へと逸らす。
「ミリアリア、…お前も家に連絡していないだろう。ディアッカが心配していた」
徒端顔を歪めたミリアリアは、顔中に力を入れて顔を俯けた。ふるふると小さく首を振る、ぎゅっと握り締められたスカートの裾に皺が寄る。
「…逢えないの」
「…俺達のこととお前たちのことは別物だ。あいつが知ったら、泣くぞ」
低い言葉に大きく肩を震わせて、わかってる、とミリアリアは声を絞りだした。
「今、だけでいいの…今だけは、キラだけの傍にいたい。キラのことしか、考えたくない。私…っ」
震える声音を聞きながら、イザークはもう1人の彼女の友人を思い出す。
「…フレイ・アルスターに負けない頑固さだな。あいつも、下女でないからキラの世話をできないというなら、毎日だって祈ってやると言って、巫女でもないのに毎日近くの神殿に通ってるらしい」
だがいつの時も口悪い文句つきだという話だ、とイザークが付け加えると、ふ、とミリアリアの肩の力が抜けた。
「フレイらしい…」
泣き笑いを零す少女を部屋へと残し、イザークは本宮へ続く通路に足を向けた。

今こうして歩いている最中も、本当は誰も彼もが泣いている。
目を背けることもできないほどの怒りを、苛立ちを向ける対象を、イザークは本当は知っていた。
真に怒りを向けるべきは身勝手な龍神だ。そして、彼と不確かな約束を交わした王国の創始者。
既にいるはずもない彼らの身勝手を思うと、イザークはいつも周囲のすべてを殴り壊してしまいたい衝動に駆られる。伝説を伝える吟遊詩人も国記編纂者も皆いなくなってしまえばいい。さすればこんな愚かな行為もなくなるはずなのに。

けれど同時に思い出す、誰のせいでもないよ、とやはり自分に語りかけるは、生涯掛けて自分が守ると決めた唯一人の優しすぎる声音。
そういって聞かせる声に胸を締め付けられて、彼女にさえ怒りを抱く、最も憎むべきは、今のこの時さえ何をすることもできない無力な自分だ。

―――痛いのも苦しいのも自分だけじゃないから。自分じゃ、なかったから。

ごめんね、と彼女はイザークに言った。
延ばした指の先を落ち着ける場所を見失ったイザークに、唯一言。
幸せになってね、と。そう。

イザークは昔から知っていた。
肝心なところでキラはバカなのだと。

―――お前のいない世界に、一体何の意味がある。

決して口にすることのできない言葉が、イザークの中堪え切れないほど膨れ上がっていた。

名を呼ぶ声

―――声が聞こえる。

喉がひゅっと小さな音を立て、意識が覚醒した。
重い瞼を薄っすら開いた視界に、薄闇に閉じこめられた自室が映る。
何度か瞬きを繰り返したキラは、己の瞼が非常に重く感じられることに気がついた。
思いがけず弟と再会し苦しさを抱えたまま自室に籠ってからどれくらいの時が経ったのだろう。気分が悪いからとだけ伝えただけのキラにミリアリアは物問いたげな視線をくれた。決して口に出来ない真実を親友である彼女にさえ打ち明けられない自分が苦かった。しかし、よく考えれば彼女が気付かないことがあるだろうかと思う。
彼女に知られたのだとしたら、きっとあの人にまで連絡がいく。内内のことだと伝え聞いたとして、責任者である彼はどんな決断を下すだろう。事の次第を詳らかにして更にまた1ヶ月この宮でたった1人の時間を過ごすか、それともなかったこととして封印するか。どちらだろう、と考える頭が、どちらにしても、と許されぬ我儘を聞く。逢いたいなどと、口に出来るはずもないと言うのにまだ。
横たわったままの姿勢でぎゅっと手を握り締め目元に力を入れたキラは、同時に胸に蟠る重量感に気がついた。
「・・・?」
呼吸が酷く苦しい気がする。
胸に手をあてじっくりと原因を探ると、じわじわと蘇ってくる光景が。
薄靄にかかったような曖昧な景色の向こうに、誰かの影が一瞬過ぎる。

『―――…』

記憶に紛れた声が耳へと届き、キラは思わず息を飲んだ。
それは音にすらならない振動。けれどキラは確信する。
誰かが自分を呼んでいる。
自身に頷いた徒端、息苦しさが加速する。
速度を増した己の鼓動を間近に聞きながら、キラは今にも消えてしまいそうな胸の感覚を探っていく。浅い呼吸を繰り返し、瞳を閉じて、深く埋もれかけようとしている記憶はおそらく今見たばかりの夢の残滓だ。

何度も、何度も、繰り返し自分の名を呼ぶ誰か。
悲鳴のような魂の叫び。悲痛な嘆きを感じ取る度、キラの胸は締め付けられる。
暗闇に紛れる人の姿は誰と知れない色をしている筈なのに、どうしてかよく知っているような気も同時にして。
短く息を吸い込んだと同時、頬を滑り落ちていく涙。
驚いて顔に手をやるも、キラの意志とは別のところで溢れ出した涙は留まることを知らないよう。
意識すればするほど胸の苦しさは増し重さは増してキラの心臓をじわじわと締め付ける。
自分を呼ぶその声が少しずつ間近に迫っていく。
切な過ぎるほどの泣き声が求めているのは誰。
この声を、きっと自分は知っている。
自覚する記憶よりも遥か遠方に置き忘れた大切な。
それは決して忘れえぬ、忘れてはならぬ彼方の約束。

赤い炎が夜空に舞い上がる。
いかないでと叫ぶ誰かの声。
約束すると微笑む声。

狂おしいほどの慟哭がキラの心に響いてくる。
シンクロする、痛みにキラは体を折って自らの肩を抱いた。

こんな痛みは知らない。
この記憶は自分のものではない。

―――否、深く響くこの声を、自分は誰より知っている。

矛盾が頭を渦巻いて、キラの中を駆け巡る。
叫びだしたい衝動に追い詰められてキラは体を震わせる。
荒くなった呼吸が吐き出す息が燃え上がりそうに熱かった。

「…っ待…ってて…」

お願い、と。
無意識に呟いたキラの耳に、離れに続く扉に訪問者があることを告げる知らせが届いた。
その時始めてキラは、激しく窓を打ち付ける雨の音がごく身近にあったことに気がついた。

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